人工授精の問題
20年ばかり昔のある昼の午後、私は庭で腰掛けていた。
あたりは花から花へと飛び回る虫のブンブンという音でいっぱいだった。これらの虫はただ花の蜜を吸うために飛び回っているのであるが、自分達が胚珠に生命を与える花粉を運び、新しい植物を誕生させていることは知らないのだ。
私がそれを眺めている間にイギリスからの電報を一本受け取った。電報は私がイギリスに預けているなかなか受胎しない牝馬に最後の手段として人工授精をしなければならない、と報じてきたのだ。
私は心の中では、いま目の前で花粉を運んでいる昆虫の像と、多額の報酬を貰って私の牝馬に精液を運ぶであろうイギリスの技術者の像が結びついていた。そして私は、人工授精というものはパスツールの狂犬病治療のような新しい発見ではなくて、自然界でよく見られるような植物の繁殖方法を単により高等な動物へ応用したに過ぎない、という事に気づいた。
このときから私は生命の研究に対する最も自然な材料としてサラブレッドを選び、観察し、研究を始めた。それから20年たって私が明らかにできるのは次に挙げられる僅か2つである。
もしたった1頭でも相当な成功を収めたとしたら、人工授精に賛成する人たちはそのことを黙っているどころか、声を大にして主張しただろう。
一見不合理だが注意深く調査されたこの観察の結果を出発点として、私の「人工授精と自然交配の現実に起きる相違、および科学的説明」に関する提言が導かれることとなった。
ガルヴァーニの実験から死んだカエルに電流を通すとカエルの筋肉がピクピクと動き始め、その電流が同じ強さのままだと徐々に弱まって、ついには動きが止まってしまうことを知っているだろう。だが、ある時点で電流の強さを増やすと筋肉は直ちに運動を再開するのだ。
生きた動物において、この「電流をかけて起きる力」は「神経的エネルギー」の形をとって自らの意思によって与えられる。
優秀な競走馬であるためには、騎手が最も有利と考えるポジションに行けるよう、馬はまず第一にスタートが早くなくてはならない。
ゲートが開いた瞬間他馬より先に先頭を切っていく馬が1頭はいるのが普通である。こういう馬は「飛び出せ」という命令を受けると、そのエネルギーが最も早く脳から筋肉へと運ばれる馬である、といえよう。
(ルグランジュは脳に命令を下した瞬間と、筋肉がその運動を実行する時間のギャップをあらわすのに「潜在瞬時
Latest Moment」という言葉を使っている。)
もしも、神経的エネルギーの最初の供給が急速に消費されたなら、その馬はペースを保つことができなくなるだろう。ところが、ある馬は余力を十分残してゴールに達するのに、後ろから来た馬は疲労困憊になっていることがある。
こういう場合、先頭でゴールインした馬はその負担重量と距離において特に神経的能力が優れていることを示している。
だが2頭の馬が最後の50mまでクビ差の勝負を最後まで演じる場合もある。
この場合にもし両馬が同じ年齢であり、同じ斤量であるならば、勝ち馬になるのは勝とうという「より強い意思」を持った方の馬だろう。意思の力が神経の「電流」の増加を促し、これにより勝利に導く爆発的なスピードがもたらされるのである。
この場合、勝ち馬は「勝とうとする意思」が相手より強くても、肉体的構造においては劣っていることもあるかもしれない。 (＊サンデーサイレンスとイージーゴアは端的な例ですね。)
もし我々が以上の事実を認め、同時に人工授精によって得られたサラブレッドに卓越したものがいないことを思い出すならば、人工授精と自然交配との相違は、人工授精によって遺伝される「精力」 (*神経的エネルギーの事)の量がより少ないことにある、と結論せざるを得ない。
もしある国で生産される全ての競走馬が人工授精によって生まれた馬であって、それが自然交配の馬より優れている、という事はありえるだろう。しかし、自然交配で生まれた最良の馬と同じ程度強いことはありえない。
このことをどう説明できるだろうか。意思の力すなわち神経伝達 (Nervous Impluse)は不十分になるのに、他の全ては正常に遺伝されるのだろうか。
私は、オスの精液を運ぶ仲介者を雇う方法をとる人工授精は、花粉を虫や風を使って運ぶ植物の受精をそのまま引き写しただけに過ぎない、とは既に述べた。だが、植物の受精は動物のそれに比べ、下級のものだ。動物は植物には全く欠けている神経的活力
(Nervous Vitality)を賦与されている。そして、自然は動物の繁殖方法を考える際にこの点を考慮したはずだ。自然は、熱烈な性的衝動の雰囲気
(これは人口受精においてはあり得ない)を、強力な神経エネルギーを蓄積するために企てたのだ。
性行為によって放出されたときだけ、この強力な神経エネルギーが伝えられ、これが他より勝つ意思に富んだを生み出し、勝者を生み出し、成功する種牡馬を、結果的に生み出すのだ。
私はこの事をちょっとした出来事を持って説明したいと思う。幻想的なまでにロマンティックであるが、この出来事は事実なのだ。